ふらつかない

大学受験とかの名残。

義務と健康

『進まざる者は必ず退き、退かざる者は必ず進む』というのは、福沢諭吉の名言です。後半の、「後退しなければ前に進むしかない」というのはもっともです。むしろ、前半の「進まなければ必ず後ろに下がってしまう」ということが、心に刻むべき教えだと思います。今いる場所に留まろうとするにも、たえず自分から動き続けなければいけない、ということです。

学力の維持、つまり知識や嗅覚を忘れないために日々努力しなければならない、というのもひとつでしょう。ですがそれ以上に、もっと大切な事があるように思えます。

フランスの哲学者シモーヌ・ヴェーユは次のように言っています。

 十字架の聖ヨハネによると、容易だが凡々たる義務の遂行を妨げる霊感は、よからぬ方面からやって来る。これを忘れてはならない。

私は受験生のとき、しばらく勉強を放置していると、(別に今やってもいいんだけど、ナンカちがうんだよな…)と思うことが結構ありました。そのとき私にとって勉強は、まさに「容易だが凡々たる義務の遂行」でした。つまりこの気持ちは、質の良いものではありませんでした。

十字架の聖ヨハネの原文には、「悪魔はもっとも大いなる価値を有することがらには容易さと迅速さを与え、凡々たることがらには嫌悪感を与える」とあります。確かに、そのときの私にとって、勉強はもっとも大きな価値を持っていました。夜中に気合で1ページでも勉強を再開した日は、それはそれは気持ちよく寝れましたし、勉強を全くしなかった日の夜にはしばしば怖い夢を見ました。そのくらい勉強に、私そのものが左右されていました。

先ほどの、(別に今やってもいいんだけど、ナンカちがうんだよな…)みたいな霊感に従って何もしないでいると、あるいは大切な何かを怠っていると、後ろに下がってしまいます。私の場合、気分が病んで、心身の調子が悪くなります。しかし、少しでも行動を始めると、気分が明るくなり、時には何でもできそうな気さえしてきてしまいます。結局、そうしてしかるべき行いを遂行しつづけることが、私という存在の健康を維持することにつながるのです。

 

さらに、ヴェーユは次のようにも言っています。

 外的世界の実在を信じるには、命じられた瞬間に義務をはたさねばならない。

また、芥川龍之介キリスト教を題材にした作品の冒頭で、その古典から次のような引用をしています。

 善の道に立ち入りたらん人は、御教えにこもる不可思議の甘味を覚ゆべし。

勉強が善と言うわけではありません。ただし、「命じられた瞬間に義務をはた」すことを誠実にやり遂げるならば、それはたしかに善の道を進んでいるのではないでしょうか。「外的世界の実在を信じる」こともまた、「永遠に超えんとする者」に触れることと並んで、受験勉強という鉛の義務から滲みうる、「不可思議な甘味」の一種であると思います。

(参考)

・『重力と恩寵シモーヌ・ヴェイユ/冨原眞弓

・『芥川龍之介全集2』