ふらつかない

大学受験とかの名残。

「在る」②

人間は「在る」という言葉を使うことができるのでしょうか。私以外のものが「在る」という表現は、まず私以外のものが私から独立して「在る」ときに、私から独立して「在る」私以外のものを、あとから来た私が受けとるという図式が前提となっています。しかし、あとから来た私は、先に何が起こっていたのか(私以外のものが「在る」だったのか)を知る由がありません。したがって、すべての人間にとって、すなわち「在る」という言葉を使いうるすべての者にとって、その者(=私)以外のものが「在る」かどうかは、確信しようのないことです。

ただし、私たちは「在る」という言葉の意味を現に共有しています。私でもあなたでもないものを、私が「在る」と言い、あなたが「在る」と言えば、「在る」という言葉はその役割を全うします。ここで、私もあなたも、私でもあなたでもないものを、受けとることができたならば、以下のような説明がもっとも確からしいと考えられます。私とあなたの間に、私でもあなたでもないものが(私からもあなたからも独立して)「在る」のではないか、ということです。そして、あとから来た私とあなたが、ちょうどその基点で邂逅したのではないか、ということです。

つまり、「在る」という言葉は、私とあなたと私でもあなたでもないものに関する、「確かめようがないが、もっとも確からしい」説明である、ということになります。

「在る」①

「在る」とはなんでしょうか。「在る」は必ず、「在りつづける」ことを意味するように思えます。「一寸先は闇」という諺の通り、私たちには一瞬先に起こることを、想定することはできても確信することは決してできません。だから、ものが「在る」ことは、その瞬間瞬間に初めて取得できる情報なのです。私たちが普段使う「在る」という動詞が指すのは、今もこの今も在りつづけている、という連続的な情報です。ヴェイユは次のように記しています。

一般論として、この瞬間、眼のまえに存在しない事物について考えるときはかならず、その事物は破壊されたかもしれぬと想像せねばならない。

まさに「一寸先は闇」の意味するところです。「在る」、すなわち「在りつづける」ことは、在ることを確信する一瞬の連なりのうちに成立しています。

(参考)

・『重力と恩寵シモーヌ・ヴェイユ、冨原眞弓

<生きていること>とはどこにあるのでしょうか。<私>は<生きていること>に対して、輝かしい未来を与えようと、いつもそのために昼の時間を青空の下で費やしています。反対に、<生きていること>は<私>に時折、「耐えろ」と要請します。真夜中のどうしようもない息苦しさと流れゆく時間が摩擦するとき、その声が聴こえます。

芥川龍之介の遺稿の最終部は、<生きていること>から<私>に対する、異様に明瞭な呼びかけです。

僕 (一人になる。)芥川龍之介! 芥川龍之介、お前の根をしつかりとおろせ。お前は風に吹かれてゐる葦あしだ。空模様はいつ何時変るかも知れない。唯しつかり踏んばつてゐろ。それはお前自身の為だ。同時に又お前の子供たちの為だ。うぬ惚ぼれるな。同時に卑屈にもなるな。これからお前はやり直すのだ。

始まってしまったものは、終わるまで彼の姿を隠し通すのでしょうか...

(参考)

・『闇中問答』芥川龍之介

果てしなさ(目を瞑る勇気)

私自身の傾向です。

 

 

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①…自分。不完全・途中を自覚。

②…自分より「上」かつ「一番」ではない人。匿名的、中間。

③…「一番」「超」の存在。自分にとって、また多くにとっての理想・目標。

①は③を見て励まされるが、②に気づいて投げ出したくなる。

 

 

何かを始める時とか、ずっと歩いてきた道でふとした時に、自分が目指す先に既にいる他人の多さに、打ちのめされてしまいそうな時があります。

スーパースターほど身近に感じてしまいますが、実際にはJ2リーガーの足元にも及んでいません。

 

遠近感とか、そこから生じる「果てしなさ」は、私の生気を簡単に奪い去ります。ゆく先の他者と比較してしまう時もそうですが、時間においてはもっと強力です。私がどれほど望み願っても、<終わり>は遥か彼方で膝を組んだきり、びくともしません。未来の到来を切望するときに襲ってくる「果てしなさ」。受験生だからこそ、よくわかるんじゃないかなと思います。

きっと、いっちばん遠くを見つめるか、ひたすら足元に注意するか、あるいはいっそ目を瞑るか、かなと思います。もっとも実践的なのは3番目な気がしてます。「目を瞑る勇気」というのでしょうか、私の中では最良解です。「それ以上詮索しない」こととの区別は、また考えようと思います。

それ以上詮索しない

「イミを考えたら負けな心理ゲーム」

私は浪人生の1年間で、受験をやる理由とか、自分にとっての受験の意味とかを、さんざん考えてました。納得しては物足りなくなってを繰り返しながら、悶々としながら、どうにかこうにか全身を引き摺って生きてました。そんなこんなで終わりも近づいてきた1月半ばに浮かんだ、唯一私になじんだ答えがこれでした。

結局、それ以上考えない、ってことで落ち着きました。もしかしたら、もうすぐ終わると身体が感じ取ったから、たまたま割り切れただけかもしれません。

精神病理学者の中井久夫は「成熟」について、次のように言っています。

成熟とは、「自分がおおぜいのなかの一人(ワン・オヴ・ゼム)であり、同時にかけがえのない唯一の自己(ユニーク・アイ)である」という矛盾の上に、それ以上詮索せずに乗っかっておれることである。

こちらは「自分は何者か」みたいな話ですが、大人になるとは、詮索をやめることだという意見です。仕事なり勉強なり、日常生活を生き抜くためには、目の前の義務をこなしつづけるためには、意味だの目的だのに足をとめていられない、という主張が聞こえてきます。

結局今も私は、「それ以上詮索しない」ことが最善解であることを、否定できていません。受験勉強においても、あるいはまだドツボにはまっていないだけで、仕事だの人生だのにおいても、いつか同じ結論に至るのかもしれません。(もちろん、「〇〇大学で××を学びたい!」などの確固たる動機を持っている受験生もいるでしょう。素直に尊敬します。)

ともかく、受験生だった私にとって、「受験勉強はイミを考えたら負けな心理ゲーム。」と呟いて黙ってシャーペンを持つのが、最後に辿り着いた所作でした。

(参考)

・『創造と狂気の歴史』松本卓也

・『看護のための精神医学』中井久夫山口直彦(※の一次文献)

義務と健康

『進まざる者は必ず退き、退かざる者は必ず進む』というのは、福沢諭吉の名言です。後半の、「後退しなければ前に進むしかない」というのはもっともです。むしろ、前半の「進まなければ必ず後ろに下がってしまう」ということが、心に刻むべき教えだと思います。今いる場所に留まろうとするにも、たえず自分から動き続けなければいけない、ということです。

学力の維持、つまり知識や嗅覚を忘れないために日々努力しなければならない、というのもひとつでしょう。ですがそれ以上に、もっと大切な事があるように思えます。

フランスの哲学者シモーヌ・ヴェーユは次のように言っています。

 十字架の聖ヨハネによると、容易だが凡々たる義務の遂行を妨げる霊感は、よからぬ方面からやって来る。これを忘れてはならない。

私は受験生のとき、しばらく勉強を放置していると、(別に今やってもいいんだけど、ナンカちがうんだよな…)と思うことが結構ありました。そのとき私にとって勉強は、まさに「容易だが凡々たる義務の遂行」でした。つまりこの気持ちは、質の良いものではありませんでした。

十字架の聖ヨハネの原文には、「悪魔はもっとも大いなる価値を有することがらには容易さと迅速さを与え、凡々たることがらには嫌悪感を与える」とあります。確かに、そのときの私にとって、勉強はもっとも大きな価値を持っていました。夜中に気合で1ページでも勉強を再開した日は、それはそれは気持ちよく寝れましたし、勉強を全くしなかった日の夜にはしばしば怖い夢を見ました。そのくらい勉強に、私そのものが左右されていました。

先ほどの、(別に今やってもいいんだけど、ナンカちがうんだよな…)みたいな霊感に従って何もしないでいると、あるいは大切な何かを怠っていると、後ろに下がってしまいます。私の場合、気分が病んで、心身の調子が悪くなります。しかし、少しでも行動を始めると、気分が明るくなり、時には何でもできそうな気さえしてきてしまいます。結局、そうしてしかるべき行いを遂行しつづけることが、私という存在の健康を維持することにつながるのです。

 

さらに、ヴェーユは次のようにも言っています。

 外的世界の実在を信じるには、命じられた瞬間に義務をはたさねばならない。

また、芥川龍之介キリスト教を題材にした作品の冒頭で、その古典から次のような引用をしています。

 善の道に立ち入りたらん人は、御教えにこもる不可思議の甘味を覚ゆべし。

勉強が善と言うわけではありません。ただし、「命じられた瞬間に義務をはた」すことを誠実にやり遂げるならば、それはたしかに善の道を進んでいるのではないでしょうか。「外的世界の実在を信じる」こともまた、「永遠に超えんとする者」に触れることと並んで、受験勉強という鉛の義務から滲みうる、「不可思議な甘味」の一種であると思います。

(参考)

・『重力と恩寵シモーヌ・ヴェイユ/冨原眞弓

・『芥川龍之介全集2』

永遠に超えんとする者

芥川龍之介に『西方の人』という作品があります。イエス・キリストの一生を作者自身の解釈・視点で綴った物語です。私はこの中に現れる、「永遠に超えんとする者」という存在にずっと憧れを抱いています。

芥川龍之介 西方の人 (aozora.gr.jp)

「永遠に超えんとする者」は「永遠に守らんとする者」に対置されます。そして、前者は聖霊に、後者は聖母マリアに対応づけられています。前者はいつも外に越え出ようとするもので、後者はいつも内に留まろうとするものです。前者は天上を目指す精神で、後者は地上を愛する精神です。(伝わるといいな。)

私は高2始めの春に、平日の勉強を、夕方16時から真夜中26時までやりきろう!と必死だった時期がありました。私の体力を明らかに超えた挑戦でした。焦っていたような、何かに取り憑かれていたようでした。結局一か月ほどでギブアップしました。

そのあと高2の秋に国語の授業で『西方の人』に出会い、深く深く共感しました。あの春の私は、聖霊に取り憑かれていたんだと思いました。同時に、少し誇らしいような、神妙な気持ちにもなりました。

受験を終えた今でも「永遠に超えんとする者」に対する憧れが、心に居続けています。だけど、いちばん「遠く」に行けたのは、やはりあの高2の春だったと思います。人生でいちばん心が清らかだったのも、あのときだったと思います。体はボロボロでした。

余談ですが、高校でそんなことを考えていたら心の調子を崩してしまい、私は1年浪人しました。そして、その間もずっと、聖霊は私の中で蠢き続けていました。そんな闘いの最終盤(入試直前)では、やはり高2の春と同じくらいに心が澄んでいたと思います。そのときの体はまあまあ健康でした。

こういう「聖霊の子供」でいれた頃の自分に憧れて、今はこの文章を書いています。当時どれだけ受験の終わりを待ち焦がれたかと思うと、ばかみたいに思えてきます。

受験生の抱えうるプレッシャーや苦しみの裏にあるはずの、清らかで輝かしい側面を言葉にした一つの形として、芥川龍之介の『西方の人』を紹介しました。