ふらつかない

大学受験とかの名残。

永遠に超えんとする者

芥川龍之介に『西方の人』という作品があります。イエス・キリストの一生を作者自身の解釈・視点で綴った物語です。私はこの中に現れる、「永遠に超えんとする者」という存在にずっと憧れを抱いています。

芥川龍之介 西方の人 (aozora.gr.jp)

「永遠に超えんとする者」は「永遠に守らんとする者」に対置されます。そして、前者は聖霊に、後者は聖母マリアに対応づけられています。前者はいつも外に越え出ようとするもので、後者はいつも内に留まろうとするものです。前者は天上を目指す精神で、後者は地上を愛する精神です。(伝わるといいな。)

私は高2始めの春に、平日の勉強を、夕方16時から真夜中26時までやりきろう!と必死だった時期がありました。私の体力を明らかに超えた挑戦でした。焦っていたような、何かに取り憑かれていたようでした。結局一か月ほどでギブアップしました。

そのあと高2の秋に国語の授業で『西方の人』に出会い、深く深く共感しました。あの春の私は、聖霊に取り憑かれていたんだと思いました。同時に、少し誇らしいような、神妙な気持ちにもなりました。

受験を終えた今でも「永遠に超えんとする者」に対する憧れが、心に居続けています。だけど、いちばん「遠く」に行けたのは、やはりあの高2の春だったと思います。人生でいちばん心が清らかだったのも、あのときだったと思います。体はボロボロでした。

余談ですが、高校でそんなことを考えていたら心の調子を崩してしまい、私は1年浪人しました。そして、その間もずっと、聖霊は私の中で蠢き続けていました。そんな闘いの最終盤(入試直前)では、やはり高2の春と同じくらいに心が澄んでいたと思います。そのときの体はまあまあ健康でした。

こういう「聖霊の子供」でいれた頃の自分に憧れて、今はこの文章を書いています。当時どれだけ受験の終わりを待ち焦がれたかと思うと、ばかみたいに思えてきます。

受験生の抱えうるプレッシャーや苦しみの裏にあるはずの、清らかで輝かしい側面を言葉にした一つの形として、芥川龍之介の『西方の人』を紹介しました。